莫邦富事务所
莫邦富事务所
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莫邦富
莫邦富事务所代表
PROFILE
著名的作家、媒体人。
1953年出生于中国上海。
莫邦富 MO BANG-FU
1953年出生于中国上海。上海外国语大学毕业后,留校担任讲师。1985年来日,之后在日本完成了硕士以及博士的课程。1995年创办了莫邦富事务所。莫邦富先生作为一名知日派媒体人,对日本的政治经济、社会文化等领域都有着独到的思考和犀利的评论,并将“新华侨”、“蛇头”等汉语词汇在日本进行了普及。同时,他致力于中日两国的经济交流,并积极开展关于日本企业进入中国市场以及日本产品在中国销售的建议和咨询活动。
莫邦富先生的代表作,《蛇头》、《新华侨》、《“解读中国全省”事典》、《中国可以说不》均成为日本畅销书。
莫邦富先生在作为作家、媒体人的同时,还出任日本广告大手博报堂的顾问,三井住友银行的咨询顾问,山梨县旅游恳谈会委员,石川县中国入境研究会顾问,新概念株式会社(IT企业)社外董事,一般社团法人 日中经济交流协会顾问,大妻女子大学特任教授。并且,莫邦富先生还担任了安徽省旅游形象大使。
成为媒体人的契机:
Q
A
去日本留学之前,我在中国农村生活过,农村时光的后半段我已经开始从事类似于媒体人的工作了。虽然在结束了日本留学生涯后我决定了要留在日本,但刚开始我并没有要长期留在日本发展的打算,只想着先在日本待个4、5年左右吧。当时还十分苦恼到底是就职呢,还是继续去探索这个世界。
毕业那会我已经接到了日本企业发出的入职邀请。而且并非以大学毕业生的身份而是作为专家被公司录用的,所以工资、待遇方面其实都很丰厚。对方的部长迫切地期待我能答应,直接过来找我谈话,而且给我两个星期的时间考虑,让我两周后给他答复。
那时候我还不知道会在日本待到什么时候,也想过自己如果工作了肯定会过上安安定定的上班族生活。不过,我至今仍然记得,当时想要去探索世界的愿望很强烈。虽然可能我日语的发音不是很好,但是我对日语的理解和表达这方面多少还是有优势的。因此,虽然拒绝掉这份来自企业的邀请会存在些风险,但当时的我对于自己凭一己之力生存下去非常有自信。这份自信和好奇心促使我决定真正开始从事这份工作——媒体人。
毕业那会我已经接到了日本企业发出的入职邀请。而且并非以大学毕业生的身份而是作为专家被公司录用的,所以工资、待遇方面其实都很丰厚。对方的部长迫切地期待我能答应,直接过来找我谈话,而且给我两个星期的时间考虑,让我两周后给他答复。
那时候我还不知道会在日本待到什么时候,也想过自己如果工作了肯定会过上安安定定的上班族生活。不过,我至今仍然记得,当时想要去探索世界的愿望很强烈。虽然可能我日语的发音不是很好,但是我对日语的理解和表达这方面多少还是有优势的。因此,虽然拒绝掉这份来自企业的邀请会存在些风险,但当时的我对于自己凭一己之力生存下去非常有自信。这份自信和好奇心促使我决定真正开始从事这份工作——媒体人。
Q
A
最早的采访大约是在1990年左右。当时我对海外的中国人社会很感兴趣,所以就以留在海外的中国人作为了采访对象。顺便说句题外话,1992年发行的《日本就学生事情》一书主要采访了一些有志于在日本求职的留学生,是我第一本用日语写的书。写这本书时,花了我很多时间去琢磨如何用日语去吸引读者的注意,如何表达比较好,所以对这本书记忆极其深刻。
当时由于是改革开放初期,不光是在日本,世界各地的华人社会,基本上都停留在是留学生的阶段,几乎没有什么人成功在海外就职。我只是凭直觉觉得这些留学生中有很多会选择继续留在海外。就在我对海外华人社会充满兴趣的同时,从1990年左右起,从中国移民到匈牙利等东欧国家的人开始增多。我对这个现象产生了兴趣,于是带着探寻世界的想法飞往东欧,开始了一个月的采访。一个月的采访到了后半程,我感到自己大致摸出了真相。不久后我的代表作《新华侨》就写出来了。我创造出“新华侨”一词,并给新华侨下了定义。所谓的“新华侨”,是指长期在海外居住,且想以世界为舞台大展宏图,拥有当地永住资格的人。此后,这个定义被中国政府认可并使用。不过,《新华侨》一书完成的时候,我发觉只用了采访资料一半的内容,还剩下大概一半的资料。如果说,当时我手上的资料可以分为“光彩”和“阴暗”两部分的话,那么“光彩”的那部分就被写进《新华侨》了。于是我转念一想,何不将“阴暗”的那部分为题材再写一本书吗?因此就写了《蛇头》。不久后,“蛇头”就作为新的固有名词在日本不断得到推广和认可了。
Q
A
实际上,我当时在日本著名电视台朝日电视台,参与策划了关于香港回归的特别节目。当时我主张,了解中国的窗口,与其说是香港,不如说是苏州和广州。于是我提议不去香港采访,而是奔赴苏州和广州采访。大部分人认为这个想法非常不合乎逻辑,因为那个时候的广州还很落后,如果要去大陆,也应该去深圳才对,并且去苏州的话不如去上海。不过,我出差的经历告诉我,广州和苏州今后具有极大的发展潜力。电视台考虑到我之前所取得的成绩,觉得我的预言会实现,因而采用了我的提案。如今回顾当初,我觉得当时在命名那方面还能稍加改进,可以把苏州叫做长江三角洲,广州叫做珠江三角洲。不过“苏州和广州将会是了解中国的窗口”的想法,日后越来越被证实是正确的。在今天,被称为世界工场的不是上海,而是苏州一带;香港回归后,汽车工业也集中在广州开始飞速发展,相比之下,深圳的发展却没能达到广州那样的程度。
日本企业和中国留学生所处环境的变化:
Q
A
我做留学生的那会,想要录用我的那个公司,它的医疗机械领域的笔译口译工作100%是由我一个人完成的,这种情况在很多家公司都存在。通过这样的日常往来和打工,留学生可以和企业建立起牢固的信任关系,因此最终有很大的可能性被企业录用。而对于现在的中国留学生,这样的机会很少有了。不过,这种事情积极面和消极面是并存的。当时那个年代,无论多么想在日本就职,作为外国人被录用的情况少之又少,有些行业是一定不聘请外国人。譬如NHK肯定是去不了的,银行也不录用外国人,即使大公司录取了你,也是要以入加入日本国籍为前提条件才行的。
虽说当时的舞台不大,但由于留学生人数很少。对于其中所谓的精英来说,反倒是个难得的良机。当时优秀的中国留学生才是真正的中国的精英。就我而言,来日时我是上海外国语大学一名教日语的老师。我认识的人当中,也有在中国政府机关工作的人员和担当日本贸易窗口的负责人。当时就是这样一群人以留学生的身份来到日本。之所以说这些人很厉害,是因为他们已经进入并了解中国社会,甚至推动着中国社会的发展。因此他们很了解中国社会当时的状况。(这和今天主要是高中毕业生,大学毕业生为主的留学生有着极大的不同)
Q
A
与当时相比,现在要就职的中国人反倒要低下头去求人了。现在供留学生发挥能力的舞台是变大了,但竞争也变激烈了,比起从前,中国留学生得到大机会的可能性有所减小。在我看来,这是留学生和企业所处环境的最大的变化。
我认为现在的中国留学生陷入了一个思想误区。他们以为自己很了解中国,但在我看来他们大都是嘴说中国话不知中国事的。事实上从日本企业的角度来看,像这样的留学生的魅力正在消退。企业可能认为还不如就在中国当地雇用个会说日语的人材,这样远比在日本雇佣中国留学生要好得多。理由很简单,因为中国当地的学生熟知当地社会的情况。
从在华日企的角度来看,他们觉得,比起花高价雇用在日中国留学生,还不如花更少的钱录用从中国大学毕业的人,这样更合算。我上面谈到的这些,是在日中国留学生都应该明白的道理。
我认为现在的中国留学生陷入了一个思想误区。他们以为自己很了解中国,但在我看来他们大都是嘴说中国话不知中国事的。事实上从日本企业的角度来看,像这样的留学生的魅力正在消退。企业可能认为还不如就在中国当地雇用个会说日语的人材,这样远比在日本雇佣中国留学生要好得多。理由很简单,因为中国当地的学生熟知当地社会的情况。
从在华日企的角度来看,他们觉得,比起花高价雇用在日中国留学生,还不如花更少的钱录用从中国大学毕业的人,这样更合算。我上面谈到的这些,是在日中国留学生都应该明白的道理。
Q
A
在我还是留学生的那会,企业寻求的是多面手、是无论是企业发展,还是各种各样的事情都能顺利应对的人材。那时候在日本工作的留学生,所做的事情非常多。和旅游局进行交涉、收集信息、到中国当地去招人等等很多方面。而如今进入业务分工的时代后,会计师事务所进军中国,律师事务所不断地涌现,中国的劳务市场也走向成熟。因此,公司没有必要特别依赖一个员工去做什么事。相反,日本企业现在开始需要能做好各种具体工作的人材。假如是商法登记工作的话,就需要掌握商法登记等专业性知识的人材。这意味着中国留学生与其各个方面都有所涉猎,倒不如具备更专业的能力,这样就能变得更有魅力。
再一点,留学生们不仅要提高自己的语言能力,也要参加志愿者活动等各类课外活动。我希望学生们可以利用这些课外活动加深对中国社会和日本社会的认识。现在的留学生跟以往的留学生不同,靠家里资金援助的人不断增加。也就是说,他们不用像以往的留学生一样拼命打工也可以在日本生活得很好。这样的留学生不应该在闲暇时候到处乱逛,而是应该坚定目标通过努力积累经验来提高自己。打个比方,即使你会说日语,对于日本来说也只是多了一个准日本人而已,只会日语并不能体现出作为留学生应有的价值。所以我强烈建议留学生们静下心来,集中精力去学习一些语言学之外的东西。
再一点,留学生们不仅要提高自己的语言能力,也要参加志愿者活动等各类课外活动。我希望学生们可以利用这些课外活动加深对中国社会和日本社会的认识。现在的留学生跟以往的留学生不同,靠家里资金援助的人不断增加。也就是说,他们不用像以往的留学生一样拼命打工也可以在日本生活得很好。这样的留学生不应该在闲暇时候到处乱逛,而是应该坚定目标通过努力积累经验来提高自己。打个比方,即使你会说日语,对于日本来说也只是多了一个准日本人而已,只会日语并不能体现出作为留学生应有的价值。所以我强烈建议留学生们静下心来,集中精力去学习一些语言学之外的东西。
关于在日本工作
Q
A
日本企业的优点是他们具有良好的职业精神和认真的工作态度。缺点就是本土性要素太强。外国人即便进入公司也总有一种被当作外人的感觉。哪怕是日本的知名企业,到中国发展了数十年之后才说出“我们公司要把外国人当作正式员工”,而且在2004年还很骄傲地宣称要对外国人开放课长一职。当时我听了这话之后,瞬间哑口无言了。
1999年我在北京采访的时候,微软和甲骨文公司等美国企业的经理和副经理基本上都是中国人。我认为日本企业的弱点就是其过强的本土性和非国际性。留学生们如果想就职,就要充分认识这一点,并做好心理准备。当然如今情况有所好转,但我做留学生时确实如此。
1999年我在北京采访的时候,微软和甲骨文公司等美国企业的经理和副经理基本上都是中国人。我认为日本企业的弱点就是其过强的本土性和非国际性。留学生们如果想就职,就要充分认识这一点,并做好心理准备。当然如今情况有所好转,但我做留学生时确实如此。
给职得日本的读者们的话
Q
A
我觉得相比于注重眼前事,大家更应该做的是紧跟未来的潮流、时代的潮流。比如说,现在中日关系很紧张对吧。其实我自己从1998年开始,就在日本的媒体和中国发表“我觉得之后的20年里中日关系不会变好。”这样的言论了。从98年说这话开始,到现在已经有十几年了,再过不久就20年了。所以现在大家所说的“中日关系不好”什么的,其实很早之前我就意识到了。我非常喜欢“一叶知秋”这句话。盛夏里一片叶子翩然落下时,就可以察觉到秋天要来了。而相反如果等到落叶已经铺满一地,就应当感觉到春天快要来了。现在中日关系在急剧恶化,20年后的中日关系又会变成什么样子呢?其实去预测20年后的中日关系的话,可以看得出某种方向性的。根据当前的预测,在2015年中国的GDP会上升到日韩中三国GDP总和的一半。照此发展的话,2018年中国的GDP会占据东南亚ASEAN十个国家再加上日本、韩国、印度的总和的一半。现在的中日关系处在中国刚赶超日本,但综合国力尚未完全跟上的阶段。因此等中日的次位再稍微稳定一点,中国就会有更从容的心态,日本也能再一次冷静地看待中国。从日本的民族性来看,日本人会认真谦虚地向比自己先进的文明学习。因此我的看法是,尽管中日现在会因为两国国力的变化产生些许摩擦,但是相信再过不久就会双方的关系就会缓和。因此,对于今后肩负时代重任的年轻人们,我希望他们不要只着眼于眼前,而是要抓住未来的潮流、时代的潮流。
Q
A
我个人觉得,日本的魅力与以往相比有所消退。但话虽如此,日本在软实力方面仍魅力不减,尤其是制造技术和技术运用方面,不可否认日本的实力仍处于世界的前沿。日本企业最好的地方在于它会倾尽全力培养员工。如果各位进入了这样的优秀企业,请一定在那里努力的学习。一旦你具备这样的意识和能力,之后不管是哪里的公司你都能适应。所以,虽说每个人可以选择的舞台有很多,但是在这些舞台中,日本和日本企业都是一个能锻炼人生的不错的舞台。希望大家都有一个光明的未来。
采访:西川友邦
编译:邓小丽
编译:邓小丽
校译:周娜、袁野
莫邦富
莫邦富事务所代表
莫邦富事务所代表
PROFILE
作家・ジャーナリスト。
1953年中国・上海生まれ。
莫邦富 MO BANG-FU
『蛇頭』、『「中国全省を読む」事典』、翻訳書『ノーと言える中国』がベストセラーとなり、話題作には『新華僑』、『鯛と羊』、自分自身の半生を綴った『これは私が愛した日本なのか』、『中国ビジネスはネーミングで決まる』などがある。
博報堂スーパバイザ。SMBCコンサルティング顧問。山梨県観光懇話会委員。石川県中国インバウンド研究会顧問。ニューコン株式会社(IT企業)社外取締役。一般社団法人 日中経済交流協会顧問。大妻女子大学特任教授。安徽省観光大使。
ジャーナリストになるきっかけ
Q
A
日本に留学する前に中国の農村にいたとき、農村時代の後半はもうジャーナリストのような仕事をしていました。日本での留学の終わり頃に、日本に残ると決めましたが、ずっと日本にいる考えを最初は持っておらず、4,5年は日本にいるだろうという考えでした。就職をするのか、もっと自分で世界を知りたいという形でやろうか、当時は悩んでいました。
実は、当時、日本を代表する企業から入社の誘いを受けていました。新卒としての採用ではなく、スペシャリストとして採用していただけるとのことで、給料の面、待遇の面も非常に良かったです。先方の部長が直接面会に来て、しかも2週間考えてください、2週間後にお返事をくださいという猶予も与えてくださり、私が承諾するのを期待していた様子でした。
そのとき、日本にどのくらいいるのかも分からず、就職したらたぶん生活は安定するだろうという予想はつきました。しかし、せっかく残るならやっぱりもっと世界を知りたい、世界を飛び回りたいと強く思ったことは今でも覚えています。発音は悪いかもしれないが、日本語に対する理解や表現に関しては多少長所がありました。リスクはありましたが、自分でやっていく自信があったのです。そのような判断で、本格的にジャーナリストの仕事に復活しました。
実は、当時、日本を代表する企業から入社の誘いを受けていました。新卒としての採用ではなく、スペシャリストとして採用していただけるとのことで、給料の面、待遇の面も非常に良かったです。先方の部長が直接面会に来て、しかも2週間考えてください、2週間後にお返事をくださいという猶予も与えてくださり、私が承諾するのを期待していた様子でした。
そのとき、日本にどのくらいいるのかも分からず、就職したらたぶん生活は安定するだろうという予想はつきました。しかし、せっかく残るならやっぱりもっと世界を知りたい、世界を飛び回りたいと強く思ったことは今でも覚えています。発音は悪いかもしれないが、日本語に対する理解や表現に関しては多少長所がありました。リスクはありましたが、自分でやっていく自信があったのです。そのような判断で、本格的にジャーナリストの仕事に復活しました。
Q
A
一番早い取材は1990年くらいでした。当時は海外の中国人社会に関心をもっていたので、取材対象としては、海外に残った中国人でした。余談ですが、実は1992年に発行された、「日本職学生事情」という本は主に日本で就職を目指す留学生への取材でしたが、日本語で表現した初めての本で、日本語でどのように読者に興味をもってもらうか、どう表現したらいいか、いろいろと体験した思い出深い本でした。
日本だけに留まらず、海外中国人社会といっても、当時はそんなに就職している人もいないので、ほとんどが留学生でした。ただ直感で、その多くはやっぱり海外に残るだろうという予想がありました。関心を持つようになってから、そうこうしている内に90年ごろ、中国からハンガリーなどの東ヨーロッパに飛ぶ人が多いことに気づいて、どうしてなのだろうと興味津々になりました。世界を知りたいと思って、東ヨーロッパに飛び、1か月間かけて取材に行きました。1か月取材を通して、後半になると鉱脈にあたったという実感がわきました。これが、やがて「新華僑」という私の代表作になりました。私は“新華僑”という言葉を作り、新華僑の定義も作りました。永住資格を持っているかはさておいて、海外に長くいようと、世界を舞台にして雄飛しようとする人、永住資格を持っている人は新華僑だと定義しました。これは後々、この定義を中国政府も認めて一緒に使うようになりました。ただ、「新華僑」という本が出来上がったとき、取材した資料の半分しか使っていないことに気付きました。あと半分くらい残っているのです。取材したときの明と暗の資料があるとすれば、明のところを「新華僑」に使ったのです。ならば、もうひとつ本が書けるんじゃないか、とふと思いました。そこで書いたのが「蛇頭」でした。やがて、「蛇頭」の固有名詞は、日本に普及・定着していきました。
日本だけに留まらず、海外中国人社会といっても、当時はそんなに就職している人もいないので、ほとんどが留学生でした。ただ直感で、その多くはやっぱり海外に残るだろうという予想がありました。関心を持つようになってから、そうこうしている内に90年ごろ、中国からハンガリーなどの東ヨーロッパに飛ぶ人が多いことに気づいて、どうしてなのだろうと興味津々になりました。世界を知りたいと思って、東ヨーロッパに飛び、1か月間かけて取材に行きました。1か月取材を通して、後半になると鉱脈にあたったという実感がわきました。これが、やがて「新華僑」という私の代表作になりました。私は“新華僑”という言葉を作り、新華僑の定義も作りました。永住資格を持っているかはさておいて、海外に長くいようと、世界を舞台にして雄飛しようとする人、永住資格を持っている人は新華僑だと定義しました。これは後々、この定義を中国政府も認めて一緒に使うようになりました。ただ、「新華僑」という本が出来上がったとき、取材した資料の半分しか使っていないことに気付きました。あと半分くらい残っているのです。取材したときの明と暗の資料があるとすれば、明のところを「新華僑」に使ったのです。ならば、もうひとつ本が書けるんじゃないか、とふと思いました。そこで書いたのが「蛇頭」でした。やがて、「蛇頭」の固有名詞は、日本に普及・定着していきました。
Q
A
日本企業と中国人学生を取り巻く環境の変化
Q
A
日系企業の多くはまだ中国に進出していない、もしくは進出し始めているところでした。
私が留学生時代、私を採用しようとしてくれた企業の医療機械分野の翻訳通訳の仕事を100%私が独占しており、それが数社ある状況でした。こういう日常、アルバイトなどで深い信頼関係を築くことができた結果として採用の話まで繋がったのだと思います。その意味では今の中国人留学生にはそのようなチャンスは滅多にありません。ただ、そのようなポジティブな面だけでなく、もちろんネガティブな面もありました。当時私たちの時代、就職しようと思っても例えばNHKに就職してはいけない、銀行も外国人採用はしない、大手企業も採用していても日本への帰化を前提に、それを約束してくれるなら採用しますよという状態で、外国人として採用することはまだまだ少なかったです。
当時は舞台も小さかったけど逆に留学生も少なかったため、その中のいわゆるエリートや評価された人にとっては逆に言えば非常にいいチャンスを与えられるという状況だったのです。当時の中国のすごい留学生は、これこそ本当の中国のエリートという状態でした。例えば自分のことを言うと、日本に来たときは上海外語大学の日本語を教えている教師でした。他にも、中国の政府の役所で働いている人や日本の貿易の担当窓口の人もいました。当時はこういった人が留学生として日本に来ていました。こういった人のどういったところがすごいかというと中国社会に入っているわけです。中国社会のシステムを動かしていたわけです。ですから、彼らは中国社会の当時の現状を知っていました。
Q
A
当時の状況と比べると、今はむしろ中国人学生が頭を下げてお願いするような状況になっています。今は、舞台は大きくなりましたが、競争も激しくなりました。ビッグチャンスをもらえる可能性も昔よりかは少なくなっています。これが私から見れば学生と企業をとりまく一番大きな変化であると思います。
現在の中国人留学生が犯している誤解が一つあると私は思っています。自分たちは中国を知っているつもりですが、私から見れば今の留学生のほとんどは中国語が喋れるけど中国を知らない人間になっていると感じています。企業から見れば、そのような人材に対しての魅力は減ってきているというのが現実だと思うのです。むしろ中国の現地で日本語のできる人を採用した方がはるかにいいと企業は思っているはずです。その理由は明快で、彼らは現地社会のことを知っているからです。
中国の日本企業からすれば、日本で割と高めの給料を出して中国人留学生を雇うよりは、もっと安いお金で中国の大学を出た人を採用する方がメリットを感じるということも考えられます。前提として、日本にいる中国人留学生はこのことを理解するべきであると思います。
現在の中国人留学生が犯している誤解が一つあると私は思っています。自分たちは中国を知っているつもりですが、私から見れば今の留学生のほとんどは中国語が喋れるけど中国を知らない人間になっていると感じています。企業から見れば、そのような人材に対しての魅力は減ってきているというのが現実だと思うのです。むしろ中国の現地で日本語のできる人を採用した方がはるかにいいと企業は思っているはずです。その理由は明快で、彼らは現地社会のことを知っているからです。
中国の日本企業からすれば、日本で割と高めの給料を出して中国人留学生を雇うよりは、もっと安いお金で中国の大学を出た人を採用する方がメリットを感じるということも考えられます。前提として、日本にいる中国人留学生はこのことを理解するべきであると思います。
Q
A
私が留学生の頃は、マルチメディア的な人間で、企業の進出のことでもなんでも、様々なことに対応できる人間が求められていました。観光省との交渉とか情報の収集とか現地社員の募集とか、その業務は多岐に渡っていました。今は、業務自体が分業化されている時代です。会計事務所も中国に進出しています、弁護士事務所もできています、中国の労務市場も成熟してきています。ですから、採用した社員に、何もかも頼む必要はなくなります。逆に与えられた具体的な仕事をきちんとやれる人間、商法登録なら商法登録などの専門的知識を持っている人間が求められるようになりました。その意味では、中国人留学生はオールマルチ的な能力よりも、もっと専門的な能力を、アピールできるようになるべきだと思います。
もう1つは、言語能力を伸ばすだけでなく、ボランティア活動を行うなどして、中国社会を、あるいは日本社会を深く知り得る・理解し得るようなチャンスをつかんでほしいです。今の留学生は昔の留学生と違って家から資金援助をしてもらっている人がだいぶ増えてきていると思います。逆を言えば昔ほどめちゃくちゃに働かなくても済むわけなのです。余った時間をぶらぶらするのではなく、目的意識を持って何かに取り組む経験によって自分自身を高めていくべきです。例えば日本語が出来たとしても、日本という国にとってはもう一人準日本人が増えただけです。留学生自身のプレミア的な要素が一切出ていないのです。きちんとある程度腰を据えて、しっかり何か語学以外のものを勉強することを強くおすすめします。
もう1つは、言語能力を伸ばすだけでなく、ボランティア活動を行うなどして、中国社会を、あるいは日本社会を深く知り得る・理解し得るようなチャンスをつかんでほしいです。今の留学生は昔の留学生と違って家から資金援助をしてもらっている人がだいぶ増えてきていると思います。逆を言えば昔ほどめちゃくちゃに働かなくても済むわけなのです。余った時間をぶらぶらするのではなく、目的意識を持って何かに取り組む経験によって自分自身を高めていくべきです。例えば日本語が出来たとしても、日本という国にとってはもう一人準日本人が増えただけです。留学生自身のプレミア的な要素が一切出ていないのです。きちんとある程度腰を据えて、しっかり何か語学以外のものを勉強することを強くおすすめします。
日本企業で働くこと
Q
A
日本企業の強みは、やはり職人精神やものを丁寧に作ることだと思います。弱みはローカル的な要素が非常に強いことです。外国人社員が入ってきてもどこか外人というイメージがずっと強く残っているように感じています。日本の有名な企業でも、中国に進出して十数年たってからようやく、「うちは外国人を正社員にする」と言い出して、しかも課長までポストを開放すると、2004年ころに自慢するように発言していました。その話を聞いて、もう唖然としてしまったことを覚えています。1999年に北京で取材したとき、マイクロソフトやオラクルなどのアメリカ系企業の社長・副社長はほとんど中国人でした。日本企業の弱みはこういうローカル的な部分、非インターナショナル的な部分だと思うので、そういった部分があることを覚悟したうえで付き合わなければならないと思います。今は状況も変わって来てはいますが、当時はそのような状況だったのです。
Q
A
職得JAPANの読者へのメッセージ
Q
A
目先のことを見るよりも、将来の流れ、時代の流れを掴んでいくべきです。例えば、今日中関係が非常に厳しいですね。私が言うにはですね、98年から日本のメディアでも中国でも言っているのですが、日中間はこれから20年間関係がよくならないと思っていました。これは98年からいっていて、いまはもう十数年間、あともう少し行くと20年間。ですから今になって日中関係が悪い悪いというのは、わかっていたことではないか。私が好きなことわざは「一葉落ちて、天下の秋を知る」です。真夏に一枚の葉が舞い落ちるのを見たとき、「秋が来る」という風に理解すること、落ち葉があたり一面に敷き詰められていれば、むしろその時に春を予感しないといけないと思うのです。今、日中関係が非常に悪い中で、じゃあ20年後の日中関係はどうなるのか。20年先の日中関係を見ると、絶対ある方向性が見えてくるわけです。今の予測では2015年には、中国のGDPは日本韓国中国の合計の内約半分を占めるようになり、2018年には、東南アジアASEAN10か国+日本韓国インドの合計の内約半分を占めると言われています。これはさらに行くと。今の日中関係は中国がちょうど追い越したところで、中国側はそんなにパワーがついていない段階です。もう少し序列が安定すれば、中国も心的余裕が出てきて、日本ももう一度冷静に中国を見つめることができると思います。日本の民族性として、日本は自分より進んでいるものには本当に謙虚に学びます。今は国力の変化でちょうど変わり目で摩擦があるが、もうしばらくすると落ち着いてくるというのが私の意見です。なので、目先のことを見るよりも、将来の流れ、時代の流れを掴んでいってほしいと、これからを担っていく世代に対して思っています。
Q
A
国としての日本の魅力は昔よりは落ちていると思います。しかし、かといって、まだまだ日本の魅力はソフトパワーの面で、特に製造技術・運用技術という点では、世界の中で先を行っているというのも事実です。日本企業の一番良いところに、びっしり教えこむというところがあります。こういった良い企業と出会って、びっしり教えてもらってください。こういった感覚・能力は結局、どこの企業にも通じるわけです。ですから、自分の人生の舞台は、常に自分で選んでもいいですが、その中でも日本は、日本の企業は自分の人生を鍛えるための悪くない一つの舞台だと思っています。みなさんの明るい未来を願っています。
取材:西川友邦
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